平成5年オカニチ連載
「まあだだよ 内田百閒回顧」 百鬼園倶楽部会長 岡將男
第1回 文壇の借金王 文章抜群だが売れず 10円使い5円借る
内田百閒てどんな人? …とよく聞かれる。巨匠黒澤明監督が「まあだだよ」を撮って、四月十七日から全国で公開するというのに、肝心の主人公百閒先生の実像は、出身地岡山ではちっとも知られてはいない。よそから来た人に聞かれても困らないよう、まずは十回程のこの連載を読んでおいてほしい。
百閒は夏目漱石門下の作家である。いわゆる小説の大作がないので、文学史上の評価はまだまだ定まっていないが、随筆のうまさでは群を抜くものがある。文壇へのデビューは大正十一年の創作集「冥途」によったが、漱石の「夢十夜」よりうまいといわれる幻想的心象風景を描いたこの作品は全く売れなかった。
友人の芥川龍之介は「冥途」を高く評価し「なぜ皆百閒の作品を求めない」と書き残して、その一ヶ月後に自殺した。百閒は芥川の次の作品の腹案を聞いていて、芥川の死後に代作しようかと思うほどであった。
百閒の文章力は、既に岡山中学校時代に、田山花袋の主宰する「文章世界」において何回も入選していることからも類推できるが、第六高等学校(現岡大)時代に、志田素琴先生のもとで俳旬に没頭したことによってさらに磨きがかかったようだ。
大正五年に漱石が亡くなるまでに、芥川の方は既に文壇に登場していたが、百閒はまだ作品を発表する機会を得ていなかった。漱石死後、その全集の編さんに主体的にかかわったところから、百閒が漱石文学のすべてを理解し、継承したことが予想される。
百閒が有名になったのは「百鬼園随筆」においてであって、それは死の直前まで四十年近く書き続けられた。あの「阿房列車」シリーズもその一つである。「百鬼園随筆」の成立には、漱石門下の森田草平が深く寄与している。「『冥途』のようなものよりも、日ごろの冗談を文章にした方がよっぽどおもしろいし売れるだろう」と予測し、そしていわば百閒売り出しにピエロ役を演じたのが草平であった。
草平は百間を,「文壇一の借金王」と呼び「借金を楽しんでいる」と書き、百閒はそれを受けて「無恒債者無恒心」、即ち借金のない者は心が貧しいと言い切ったのである。
草平は「五円借りに来るのに十円使って一等車や人力車に乗ってくるやつ」と百閒を語った。その話が人の興味を引き、昭和八年「百鬼園陪筆」は大ヒットとなったのである。だが、そこに至る過程というのは並大抵のものでなく、古里岡山へ帰ることさえできなくなっていた。
岡 将男(おかまさお)昭和52年東京大学経済学部卒。59年から中国食品工業常務取締役。国鉄ホバークラフトを京橋へ就航させる運動を提案。60年1月には岡山未来デザイン委員会を設立。62年から内田百閒生誕百周年記念事業を推進し、現在百鬼園倶楽部(内田百間顕彰会)会長。趣味は鉄道模型、
飛行機、古代史(岡山の古墳とシルクロード)。38歳。
第2回 三つ子の魂 お金に無頓着治らず 残った財産は著作権
百閒がなぜ借金をするようになったかというと、稼ぎ以上に使ったからとしか言えない。百閒の生家は岡山市古京町の造り酒屋「志保屋」で、父久吉の代に身代は大きくなって、その一人息子である榮造(百閒)は何不自由なく育った。丑(うし)年生まれの榮造は、牛のおもちゃが好きだというので、家の者は早速本物の牛を平島(岡山市)から連れてきて、家の中に牛小屋まで作ったという。百閒生家前の文学碑の上の牛のブロンズ像はそれにちなんでいる。
父親は明治の二十年代に、榮造を慶応の幼稚舎に入れようとしたというから、今でもそんな教育熱心な家庭も少なかろう。ところが百閒が岡山中学校の時に店はつぶれた。「泡沫一朝でお店はつぶれ、私は文士みたいなことになりました」と彼は書いている。
しかし、店はつぶれても祖母の持参金のようなものがあったとかで、六高時代にも夏の避暑に明石に滞在していて、毎日レモネードを飲んで支払いがたまって、あわてて送金してもらったりする。
初めて質屋に行ったのは旧制六高に入る直前で、京都の宿屋にチップを払い過ぎて、帰りの旅費が二銭足りなくなり、琴の本を質へ売ったのであった。福武文庫の『大貧帳』の「二銭紀」という文章はぜひ読んでいただきたいものである。
東大入学後、早々に結婚し、子供が次から次ヘとできて、母祖母を呼び寄せて、後の大貧乏の根本ができあがる。漱石の奥さんは、あまりよく百閒が借金に来るので「百閒」というベンネームは、漱石が借金の音をもじってつけてやったものと思い込んでいたという。もちろん岡山の百間川からきているのだが大学卒業後、陸軍士官学校の教官になったが、家中がインフルエンザにかかって、看護婦を雇ったら、その支払いが月給より多かった。芥川の紹介で海軍機関学校の兼務教官となり、さらに法政大学の教授までやって、今でいえば年収二千万もあっただろうと思われるのに、毎晩学生を引率して牛鍋屋に繰り込み、その支払いが月給を超えていた。
不足は借金でまかなわれ、高利貸に追いまくられて、ついに大正十四年に家を出て独居生活に入った。昭和二年、後のこい夫人と同居するいわば二重生活であり、十一年には最愛の長男久吉を肺炎の手遅れで失う。
借金や家族との相克。百閒文学の成立には大変なお金と、家族や友人知人の涙が関与しているのである。しかし、亡くなる時、百閒には借金も資産もほとんどなかったが、唯一著作権という財産を残してしまう。皮肉なことである。
第3回 百閒の阿房 列車で弥次喜多道中 1等切符で食堂車直行
私たちは、百閒の生誕百年を祝うためのイベントとして「故郷阿房列車」を走らせた。昭和六十三
年のことで、レトロファッションでの参加者の姿が印象に残っていると思う。百閒の代表作といえばやっばり阿房(あほう)列車」で、九州のある人が「漱石の猫、百閒の阿房」と言ったという。
「阿房」とは、秦の始皇帝の建てたとんでもなく大きな宮殿「阿房宮」からきていて、おそらくは「阿保」の語源なのであろう。阿房列車の始まりは、昭和二十二年の十月に、国鉄の平山三郎さんをお供にして、特急「はと」に乗って大阪に行ってきた旅である。
「阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう言っただけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない。(略)なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思ふ」。(『特別阿房列車』)
用事のない旅だから一等でゆく、帰りは帰るという用事があるから二等でもいいが、あいまいな二等には乗りたくないという。もともと汽車は大好きで、明治四十三年の宇野線開通の時には、初乗りをして宇野ではホームから出ずに引き返した。時刻表を眺めていると夜のふけるのも忘れるほどであったという。
さてヒマラヤ山系(平山三郎氏)との全国行脚は、まるで弥次喜多道中である。平山さんがポケ役で、百閒が繰り出す理路整然としたへ理屈を軽くいなしてしまう。紀行文とはいっても、平山さんがいなかったら名作「阿房列車」は生まれなかっただろう。
汽車に乗った百間は、何にも用事がないわけだから、食堂車に行ってお酒を飲む。平山さんも百閒に匹敵する酒豪だから、食堂車で五時間も六時間も粘る。一等の切符を苦労して取ってもほとんど役立たない。食堂車や駅弁は大好きで、汽車で食べるとスピードという味付けがあると言う。
昨今のデパートの駅弁大会など、百閒ならけしからんと怒るかもしれない。それにも増して、この十八日からのダイヤ改正では、ブルートレインから食堂車が消え、最新鋭の「のぞみ」には初めっから食堂車がないのである。まるで用事のない者は汽車に乗ってはいけないといわんばかりである。
用事がないから、百閒は観光などしない。してはならない。温泉にも行かない。「人がもうけようと思って待っているような所へ行けるか!」というのである。現代の観光ツアーや観光産業の関係者は、ぜひ阿房列車に親しんで、人のもてなし方を研究してほしいと思う。
第4回 東京名誉駅長 阿房列車が縁で 委嘱と解任の2つの辞令
阿房列車シリーズの随筆は大ヒットとなり、特別阿房列車のあと区間阿房列車で沼津あたりを行ったり来たりしたり、鹿児島の方にも足を延ばした。九州では八代の松浜軒というのが気に入って、前後九回も訪ねることになる。
松浜軒は八代藩主の別邸で、庭が大変きれいで趣があった。戦後の一時期旅館をやっていたが、百閒が平山三郎さんと行った時には、いつも他には客はいなかったという。昭和三十三年に最後に訪れた直後、お客がいなければ、当然といえば当然ながら旅館は廃業となった。
一昨年の秋、雲仙の普賢岳が大鎮火を起こした日に、われわれは東京から八代に阿房列車を走らせて松浜軒を訪ねた。松浜軒の主人は熊本の出水(いずみ)神社の主の松井葵之さんで「出水神社は水前寺公園の中にあるんですってね」と言ったら「いや、出水神社の中に水前寺公園があるんです」と言われた。
松井家は、肥後熊本細川家の筆頭家老の家柄で、一国一城制の下でも三万石の大名格で八代城を持っていた。ちょうど岡山の虫明藩二万石の伊木家が、池田家の筆頭家老であったのと以ている。ちなみに現当主の松井さんは、あの日本新党の細川さんのいとこだということであった。
松浜軒を百閒が気に入ったというのも、至れり尽くせりのサービスがなくて、ほっといてくれたからであろう。自由人であった百閒には、宿の過度のサービスは干渉と映った。
八代は何回も行ったが、東北、四国、松江、新潟など、合計二万五千八百三十八キロもの「用事のない旅」をした百閒、無那気なようにみえて、実はとんでもない主張をしているように思える。戦前の精神主義の良い部分も悪い部分もすべてかかなぐり捨てて、ひたすら物質的繁栄を求め始めた、日本社会に対して、彼は「用事のない旅」でささやかな抵抗を試みたと私は考えている。
阿房列車運行がきっかけとなって、昭和二十七年の鉄道八十年に、百閒は東京名誉駅長に委嘱された。気難しい百閒さん、「辞令をもらったら、一日だけではやめませんよ」と答えた。「解任の辞令も用意しておかなければいけないよ」という。この解嘱状というのが今回寄贈された遺品の中から出てきた。その百閒名誉駅長、大好きな展望車を見送るのは嫌だと、出発合図もせずに「熱海駅の施設を視察」に出かけてしまう。きょう、東京から出るわれわれの阿房列車は、このエビソードを再現しようというのである。
第5回 百閒のグルメ・猫・琴 ぜい尽くした晩さん 学生時代から琴を弾く
「世の中には何でも知っているバカがいる、大学の研究室なんかには…」と言う。もともと法政大学の教授の百閒先生だが、私は百閒ぐらい何でもよく知っている人はいないと思う。
彼は知っているだけでは駄目で、それを忘れたところに味があると言う。情報化社会の現代人にとっては考えさせられる一言である。情報というものは、すべてだれか人の作ったうわさ話にすぎず、肝心なのはその情報を選別する判断力にあると彼は考えていた。
百閒は時代の流れに動じることのない確たる自分の見識を常に持とうとした。彼の作品のユーモアは、時代の流れと彼の考えの微妙なずれが醸し出すものであって、百閒を奇人変人扱いする人も多いが、おかしいのは時代の方であると私は思う。
奇人変人も多数決の論理の産物であって、私なども人と変わったことばかりしようとするので、若干変わり者のように言われるが、本人は至ってまじめなつもりである。
さて話が少しくどくなった。百閒は六高時代から琴に規しみ、大正八年に琴の名人宮城道雄と知り合い、たちまちのうちにお互の心の奥に潜むちゃめっ気を刺激しあって、大の仲良しとなった。百閒が盲目の宮城に文章を教え、宮城は琴を教えるのだが、二人である時講演に招かれた際には、百閒が琴を弾き、宮城が講演をしたという。
また、百閒は宮城道雄たちプロを客に呼んで、桑原(ソウゲン)会という演奏会をやった。クワバラクワバラという訳だ。空襲で琴を焼いたあと、岡山の岡崎の眞さんから琴を送ってもらっている。
親友の富城道雄が、刈谷駅で事故死した後「東海道刈谷駅」を出版している。先日のわれわれの阿房列車でも、夜中に全員刈谷駅で起きて追悼式を行った。
百閒は大変な食いしん坊であった。岡山の大手饅頭は目の中に入れても痛くないほど好きで、カビが生えてもふかし直して食べた。二年前、雑誌サライが百閒流グルメを特集したら、二十頁にもなった。毎朝まず起き出したら、その日の晩餐(ばんさん)のメニューをメモにする。奥さんは大変だったろう。朝は牛乳と英字ビスケットと果物。昼はザルソバ。空腹を押さえておくだけで間食はしない。そして夕食は材料を吟味した十二、三品。おぜんに右へならえと号令してゆっくり食べる。一日が晩餐のためにある。
そしてお酒にビール。「美食は常食にあたわず」がモットーである。うまい酒をもらって「いつも飲めない上等な酒は、もらっても困る」と言う。ぜいたくというものも禁欲あればこそ味があるというわけであろう。
第6回 スポーツ航空の草分け 訪欧飛行の先見性 嘱託で7回船旅も経験
昭和四年というから、今から六十年も前に内田百閒は法政大学航空研究会の会長に就任した。他校にないスポーツを始めようという学生の発案に、多くの教宮が「君子危きに近寄らず」と言っていたのだが、百閒は「危きに近寄ろう」という気持ちがむくむくと起こったという。
当時はまだ航空界の創生期であったが、陸軍も潜在的軍事力の育成という点から学生航空の必要性を感じており、練習用の飛行機を払い下げてくれた。百閒先生は東奔西走して航空研究会の発足に努力し、さらに六年には、学生による訪欧飛行を計画するのである。
飛行機そのものが珍しい当時、純粋にスポーツ航空を目指そうというのだから、その先見性は素晴らしいものがある。私は岡山の岡南飛行場を残す運動に少し関係したが、今でもスポーツ航空への偏見はかなりあると思う。訪欧飛行用には、青年日本号を特別に作り、栗村盛孝が教宮の指導のもと、開港直前の羽田飛行場を離陸したのは六年五月二十九日、百閒の誕生日であった。
青年日本号は、羽田の最初の離陸飛行機となった。その日羽田には五万人の見物客が集まり、内田会長の白旗の合図で離陸滑走を始めた。百閒が今でいえば、一流のイベンテーターであるということがお分かりいただけよう。
青年日本号は三度の不時着にもめげず、無事ローマに到着し面目をほどこした。汽車好きというのも、当時の先端技術ヘのあこがれから始まっているのだが、飛行機にしても新しい物への好奇心がおう盛であったからここまでのめり込んだのであろう。
空の次は海だが、百閒は十四年に全盛期の日本郵船の嘱託となり、その縁で七日も豪華客船の旅を経験している。会社の文章の直し役という暇な仕事だったが、律義に毎日出勤し、ボーイ付きの部屋を与えられたその部屋が六四三号室であり「無資産(むしさん)」通じると言われて結構喜んでもいる。
船に乗るのが仕事ではないのに、やたらと便乗してその模様を文章にした。阿房列車の用事のない旅は、一足先に船で実現している感じである。
新造船新田丸について「新田丸問答」という解説を書いたり、新造船八幡丸の処女抗海に乗ったり、わずか二年の間に七日も船旅を楽しんだ。
だが戦局風雲を告げ、新田丸など多くは太平洋戦争開始後に徴用されて空母に改造された。新田丸(空母沖鷹)は十八年、八丈島沖で撃沈され、百閒の愛した豪華客船時代は終わったのである。
第7回 人柄偲ぶ品々一堂に 百閒追悼展の遺品 愛用帽子や恋文、表札
作家の遺品というのは、関係のない人には何ともなくても、ファンにとってはよだれが出る程欲しい物である。初版本や原稿は言うに及ばず、財布や帽子までコレクションの対象となり得る。だが、これらを個人が所蔵したとしたら、その人が亡くなればたちまち分散してしまう恐れがある。
岡山では平成元年の百閒生誕百年の時に、三光荘(岡山市百京町)の百閒コーナーがオープンし、この時百閒の弟子の中村武志さんの所有する初版本や百閒のプロンズ像、書などが購入され展示された。
百閒コーナー開設については、三光荘のシンボルとして作るべきだと私が長野知事に提案したのだが、以後百閒については岡山県郷土文化財団が中心となって収集を行ってきた。
百閒の友人であった岡崎の眞さんの所に、たくさんの初版本があると、現岡山瓦斯社長の岡崎彬さんから連絡を受けてお邪魔したところ、署名入りの本が長年の塵(ちり)にまみれて倉の中にあった。そのほとんどは財団に寄贈していただいた。
岡崎さんの所にはまだ未公開の百閒の手紙が八十通も残っている。百閒の遺族の三女の美野さんの所には、百間が清子夫人にあてた恋文が残されていて、公開するかどうか何十年も迷われた末「恋日記」として出版された。この恋文と中学時代の日記なども財団に寄贈された。
一昨年の夏、われわれ百鬼園倶楽部の東京支部の方々が、平山三郎氏夫妻を囲んで東京の百閒旧居近くのうなぎ屋「秋本」に集まった。食いしん坊の百間が、ここのうなぎを気に入って「大の月の内二十九日も食べた」というその店である。
この時、百閒の二人目の夫人で、四十年も百聞の身の回りの世話をされたこいさんの妹のち江さんがいらっしゃっていた。「百閒の使っていた物がたくさんあって岡山の方に差し上げたい」とおっしゃるので、それでは財団の方にぜひ寄贈して欲しいとお話しした。財団の高山雅之さんの丁重なお手紙に感激されたち江さんは、たくさんの遺品を岡山へくださることになった。
百閒の愛用した帽子や服、毎日のお膳のメモ、たくさんの初版本、「日没閉門」の札や表札。その多くは一度黒澤プロが、映画「まあだだよ」で参考にするため借りていたという。だからやっと今年になって岡山に贈られてきた。
今回天満屋で開かれる追想展では、これらすべてを見ることができるほか、百閒旧居の再現も試みられる。また会期終了後は、吉備路文学館での特別展も開かれる。私は当初から「内田百閒記念館」を作れたらと思っていたが、中に入るものはもう十分そろったようである。
第8回 先生はオアシスだ まあだだよの摩阿陀会 慕う学生と酔って騒ぎ
黒澤明監督の三十作目「まあだだよ」の封切がいよいよあすに追ってきた。黒澤は以前から百閒を読んでおり、いつか映画にしたいと考えていた。「夢」が公開された時、百閒の初期の幻想的作品群を意識しているのではないかと思ったが、今回発売された黒澤自筆の絵コンテ集の中で、百閒作品からヒントを得たと語っている。
「まあだだよ」の主人公は内田百閒である。百閒は自分の学生たちをとてもかわいがり、学生たちに終生慕われた。若千ベチャベチャしているように思われるかもしれないが、百閒という人間の魅力にとらわれた彼らにとって、百閒は「オアシス」のような存在であった。映画宣伝のコピーに「今、忘れられているとても大切なものが、ここにある」とあるが、百閒についての感想として私も同感である。
映画を見たちょっと年のいった人々は、皆一様に昔の教育の持っていた素晴らしい部分を思い出し涙ぐむ。その感動を、よく分からない若い人々にちゃんと伝えてほしいものである。師弟愛という概念の復活が、教育改革のポイントだとも思う。
さて百閒は、昭和二十四年に還暦を迎え、弟子たちが祝宴を開いたが、翌二十二年、百閒がまだ生きているというので「摩阿陀会(まあだかい)が開かれた。百閒も命名の名人だが、その指導よろしく弟子たちもなかなかユーモアに富んでいる。
会はまず、百閒先生のビールの一気飲みに始まり、続いて百閒の演説がある。「…何しろお忙しいところを、お忙しくなかった人もありまして、誠に相済まぬ事であります」などとやる。酔ってしまえば参加者は百閒も含めて昔のいたずら学生時代に戻ってしまうから大変なにぎやかさである。
古い歌を百閒が独特のかん高い声で歌ったり、ある者は稚内から屁児島への駅名を暗唱したり、あまりの騒動にM Pまでのぞきに来る始末であった。
「摩阿陀会」は、百閒一人が招待されたわけだが、対になる御慶(ぎょけい) の会は、百閒一人で全員を招待するのだから錬金術も大変だった。年末になるとまだ書いてない原稿料を前借りして、 一月二日の会に備える。会そのものはやっばり「摩阿陀会」と同じ大騒ぎとなる。
両方の会は、そのほとんどが東京ステーションホテルの藤の間で行われた。百閒の会は夕方から始まって十一時ごろまでと大変長く、ボーイも「決死隊」が出る程であった。
全体の半分が宴会の模様を撮った「まあだだよ」、さぞかし撮りにくかったろう。巨匠黒澤明氏がどう撮ったか、まずは映画館にてこ覧ください。
第9回 2人の夫人が「献身」 百閒の家族 大切な人の死を作品に
内田百閒の随筆には、ほとんど家族のにおいがない。特に晩年の作品では家族生活というのは欠如していて「家の者」という表現しかない。百閒に子供はいなかったと思い込んでいる人もいるぐらいである。
百閒は中学時代の友人堀野寛の妹、清子と恋愛をしてまだ学生時代の明治四十三年に結婚した。翌年長男久吉が生まれ、長女多美野、二男唐助、二女美野、三女菊美と五人の子ができる。
百閒はお婆ちゃん子で、甘やかされて育ったから、常にだれかが身の回りの世話をやかなければならなかった。幼いころは祖母と母と婆やの三人がかりであった。
大好きな父久吉の死は、百閒の一生に大きな影を落とした。今回発見された百閒の資料の中に、その父親の肖像画があって大切にしていたのがよく分かる。懐かしい父親のことを何回も作品の中で書いている。
祖母たけは、百閒と直接血のつながりはなかったが、しっかりした人で百閒をとてもかわいがった。その祖母が亡くなり、百閒は非常に大きな精神的支柱を失ったようである。
百閒という人は、大切な人の死の悲しみを、文章にすることによって乗り越えてゆくような感じがある。父の死、漱石の死、弟子の長野初の死、息子の死、親友宮城道雄の死、さらには猫のノラやクルツに至るまで、死を見る悲しみのエネルギーが作品を生んでいるかのように見えてくる。
だが、祖母たけの死については、なぜかほとんど語っていない。最初の妻。清子は子育てに追われ、百閒は借金に追われ、大正十四年ついに百閒は家を出て早稲田の安宿に逃げ出すのである。そのうち昭和四年になって佐藤こいと同居する。
こいは芸者であってぃ随分と年は離れている。しかし、どうもいわゆる二号邸に移ったというのと感じが違い過ぎるのである。第一百閒は当時食べるのにも困っていた。二女の美野さんによれば、これはもうある種の仕事場、書斎を持ったと考えてもよいという。事実、百閒は二つの家を行き来する。
昭和十一年長男久吉が、肺炎をこじらせて亡くなり、その悲しみを「蜻蛉眠る」に書き綴ったところから、清子との交流は止まる。このころ既に百鬼園随筆で有名作家となっていた。
映画「まあだだよ」に出てくる奥さんとは佐藤こいであったが、実は昭和三十九年に清子夫人がなくなるまで戸籍上百閒の妻であった。四十年もじっと黙々と子供たちを育て上げたのである。清子夫人亡きあと、こい夫人は入籍されてやっと正式な妻になる。清子夭人とこい夫人の二人の献身が、百閒文学を生んだとも言えよう。
第10回 それぞれの「百閒像」 映画「まあだだよ」を見て 作品読んで魅力を知って
先週いよいよ百閒を主人公にした映画「まあだだよ」が公開された。黒澤明監督の三十作目であるとか、所ジョージが出てることが強調されて、主人公が百閒であることが薄れているようである。私の感想としては、とにかくかなり百閒らしい部分は描けていると思うが、百間はもっと複雑で威厳があったかもしれないと思う。映画化が決定して一番に思ったのは、黒澤明氏自身が主役をやったらいいというこ
とであった。
映画界における黒澤の存在は、まさに巨匠以上のものがある。黒澤天皇という言い方さえある。今回の映画を通じて私は少なからず映画界のことを知ったが、黒澤組といわれる黒澤監督とスタッフ俳優たちの関係は、百閒とその弟子たちの持っていた絆に実に良く似ていて、だから黒澤には威厳があるのだし、いつまでも映画制作の意欲を持ち続けられるのだろう。
黒澤は昔から百閒の作品を読んでいたという。私は前々作の「夢」を見て、百閒の作品の陰を感じていたが、黒澤自身そのことを絵コンテ集の中で語っている。黒澤は「映画は映像で見せるのであり、その意味で百閒先生を描いていても、やはり私自身の描く百閒像に違いない」と、他の対談でも言っている。
百閒の熱心なファンは、黒澤が百閒を材料に映画を撮ると知った時、妙なさみしさを覚えたものである。自分たちが数々の文学遍歴の後、やっと堀り当てた鉱脈を、ずかずかと踏み荒されたような気がしたのである。百閒の作品は、ネタそのものも面白いが、その話は独特の悲哀のベールに包まれている。ちょっとした光の当て方によっては、紫にも赤にも青にも見えるような多面性を持っている。
だから百閲フアンは、それぞれの百閒像を持っていて、必ずや黒澤の描ちょっと百閒像とは異なっている。「あれは百閒じゃない」と言いたくもなる。
戦前、既に百閒は映画や演劇になっており、その時百閒は「映画を見て、自分が全くその通りだと思われるのは意外だが、自分の作品から筋を作ることができるのは、自分の文章がまだ未熟だからだろう。映画には映画の求める理想があるだろうが、このうえはぜひ自分の文童を読んで欲しい」と言っている。
「まあだだよ」を見て、また、私のこの連載を読んだり追想展を見て百閒に興味を持った方は、ます百閒の作品を読んで欲しい。そしてあなたの百閒像をつくって欲しい。その心の中の百閒は、きっと日常生活の中でキラリとした光をあなたに与えてくれるであろう。(おわり)令和2年5月17日修正